よくあるご質問(豆知識)

大井川は暴れ川

大井川
▲大井川

かつて旅人にとって東海道随一の難所として知られた大井川。暴れ川としても一級で、ひとたび氾濫するとその河口は扇のように広がり、東は現在の焼津市八楠付近から西は吉田町にいたる、およそ16キロにもおよぶ流れる海となって住人を苦しめたそうです。

奈良時代には何本もの支流をつくって流れる大井川を、島田あたりから藤枝、焼津まで舟に乗って往来していたのだそうです(島田市博物館資料による)。
大井川によって造られたこの志太平野には、今でも『島』とか『洲』が付いた地名が沢山残っています。

大井神社は、肥沃(ひよく)土壌(どじょう)と豊かな水を恵んでくれる一方で、恐ろしく強大な力を持つこの大井川の国魂(くにたま)精霊(せいれい)を祀り、五穀豊穣と生活の安泰を祈ったのがその始まりと考えられています。

大井神社ってひとつじゃないの?(大井神社は大井川の神様)

大井川沿線の大井神社分布図
▲大井川沿線の大井神社分布図

大井神社が祀られるのは島田だけではありません。実は大井川流域、またはかつて流れのおよんだ地域を中心に、四十数社の大井神社が祀られています。
昔は七十数社あったものが、ほかの神社と統合(合祀(ごうし)という)されて現在の数になったのだそうです。限られた地域に、川と同じ名前の神社がこれほど多く祀られるのは全国的にも非常に珍しいのだそうです。

これらの大井神社の中に、村の中で一番川上、または川寄りに祀られている(または、祀られていた)祭祀形態を取るところが数社見られます(伊太、神座、渡島、家山、徳山、田代、大沢-現在は山の中腹に遷座)。
島田の町並みが大井川近くに広がって、本社がさらに大井川近くにお遷しされたことは前述の通りですが、江戸時代までは大井神社はそういう祀り方をするのが一般的だったのかも知れません。
当社をはじめ、東の焼津市中里に至る志太平野側にある大井神社には東向きに(大井川の方角を向いて拝む)お祀りされる例が多く見られます。

大井の神様は上流から大洪水に乗っておとずれる

大井神社旧社跡
▲大井神社旧社跡

大井川上流、大井川鉄道SLの終点となる千頭の街のさらに上流に谷畠(たにはた)村字大沢という村があります。
江戸時代文政5年(1822年)、島田住人の桑原藤泰氏が当時の駿河の国の村々の生活の様子や文化伝承を詳しく調査して歩き発刊された『駿河記』によると、島田の大井神社は、いつの世か大井川の氾濫によりこの大沢から流れついたものをお祀りしたのがはじまりといわれています。

大沢の村人たちが村の復興を終えて川伝いに御神体を探して島田まで来ると、すでに島田の人たちに祀られていて返してもらえなかったのだそうです。
それで仕方なく大井神社のご分霊(ぶんれい)を大沢に持ち帰って、二度と流されることのないよう今度は山の中腹にお祀りしたのだそうです。今でも大沢に行くと大井川の川辺に昔大井神社が祀られていた御社地跡とされる小高い丘を見ることができます。

また、今でも島田大井神社のご例祭には大沢村大井神社から氏子総代さんが参列します。
自分たちの村の氏神様が島田大井神社の元宮だという伝承は、さらに上流の閑蔵(かんぞう)村にもあり、また、上流から流されてきた神様を祀ったという話しは島田市神座(かんざ)、川根町上河内(かみこうち)、中川根町田代にも伝わっています。

御神紋はマルにペケ?

大井神社の御神紋
▲大井神社の御神紋

大井神社の拝殿屋根や灯籠には、マルにペケのしるしが付いています。
これは大井神社の御神紋で、一説によると前述の島田に流れ付いた際に御神体が2体あって、それがバッテンの形で河原にひっかかっていたのだそうです。

これを発見してお祀りしたのが本通り5丁目の嘉十薬局のご先祖様で、今でもその伝承にちなんでお神輿(みこし)のお渡りの際には嘉十薬局さんの前でお神輿を止めてお祀りをするのだそうです。

この御神紋は正式には『丸千木(まるちぎ)』と呼ばれ、伊勢神宮のお社の屋根に象徴される千木(ちぎ)を型取ったものです。

元祖大井神社?

奈良時代の郡域(志太郡・益頭郡)と古道推定図
▲奈良時代の郡域(志太郡・益頭郡)と古道推定図

大井川の名前が初めて書物の中に登場するのは『日本書紀上』仁徳天皇62年の夏5月のことだそうです。(5世紀頃ではないかといわれています)

大井神社の記録は、延喜式の少し後に作られた『三代実録』巻11に『貞観7年(865年)12月21日 駿河国正6位上大井神従5位下』と記されているのが最古とされています。
この貞観7年駿河国大井神社をめぐって、大井川流域の村々で長い間『元祖大井神社』の論争が続いていたそうです。一応駿河記の編纂によって大沢村の大井神社で落着したそうですが、今から1100年前の大井神社って、どこの大井神社だったんでしょう?ロマンです…。

『島田』の地名が歴史上初めて登場するのは1192年、鎌倉幕府を開くにあたって東海道沿線に速馬の駅(中継所)を定めた時、初めて『島田駅』として記されたそうです。

大井神社白蛇伝説

大井神社白蛇伝説
▲大井神社白蛇伝説

昔から大井神社にはへびの御神体がお祀りされているといううわさがまことしやかにささやかれてきました。それにはこんな伝説が影響しているのかもしれません。

昔、大雨で大井川が氾濫(はんらん)して、島田の町が大洪水に見舞われました。
水かさは益す一方で町も最早(もはや)これまでと諦めかけたとき、赤い目をした白い大蛇が現れて大雨の中を静かに町の下の方へ進んでいきました。
大蛇は高島(たかじま)の堤防まで行き、ひと暴れして大きな尾で(つつみ)をこわしました。
(あふ)れていた水は見る間にひいて、町は洪水からのがれることができました。
水がひいたのを確かめると、大蛇は白い着物姿の美しい女性になり、町の裏通り(新田町)を通って大井神社に戻っていきました。
このとき『なんといい女だろう』などと(よこしま)な目でこの女性を眺ながめた男たちは、熱を出して寝込んだそうな。
また、良く見るとこの白い大蛇の目は片方が小さかったそうで、島田の氏子は必ず片方の目が小さいのだそうな。

今でも大井神社のご本殿には6尺ほどの蛇が住んでおり、見かけたものが手を合わせて『どうぞお帰りください』と唱えると、ご本殿に帰ってゆくといいます。

-昭和50年ころまで新田町で語り継がれていた伝説です-(新田町古老より聞く)