「帯まつり」が始まった訳
慶長の大洪水
慶長9年(1604年)秋、未曾有の大洪水によって島田の街の大半が流され、大井神社も深刻な被害に会いました。(このとき大井神社の石の鳥居が海辺まで流されたと伝えられています。)そこで島田の街は東北の位置にある現在の元島田に11年間ほど避難します。
大井神社もすぐ隣の野田山にお遷しされます。(今でもその時のご社地にあたる静岡大学付属島田中学校の裏山の東の方には、大井の段、大段、小段、お手水ヶ谷などの地名が残っているそうです。)
街がようやく復興した元和元年(1615年)、大井神社は今の御仮屋町のお旅所の地にお遷しされます。
ここは丘地で松の樹厘林をなし、大水害の時にも被害を受けず安泰だったのだそうです。
御社地の移転
それから約70年後、江戸幕府の参勤交代制度、川止め制度等の恩恵により、島田の街並は急激に大きくなり、大井神社より西に(大井川寄りへ)民家が広がり、自分たちの生活汚水が氏神様の方へ流れるのは申し訳ないと言う氏子からの請願により、元禄2年(1689年)現在の御社地にお遷しされました。
ここにはすでに竃神社、須賀神社、祈年神社、春日神社(延宝年中1673~81年勧請)等がお祀りされており、鹿島踊りも奉納されていました。
お渡行のはじまり
さらに元禄8年(1695年)から、元のご社地へ御神輿のお渡りが行われることになり、当時の代官がお祭りの時だけは無礼講を許した為、このお渡りの警護の行列がやがて10万石の格式を持つ大名行列へと発展しました。
現在でも大奴25人衆のうち4人は御神輿が出る時と帰って来た時、御神体をお遷しする際にご本殿前で左右2人ずつ向き合って神様の護衛をしています。(一般の方は見学出来ません)
嫁入りの挨拶回りと安産信仰
一方、当時島田に嫁入りをすると、大井神社に参拝の後、新婦が嫁入りの丸帯を持って町中全戸に挨拶回りをする風習があり、広域に拡大する町並みに困っていたそうです。
そこで当時から安産の守護神として信仰のあった大井神社の御神輿の行列である大奴の大太刀(おおたち)にその帯を下げて披露するようになったそうです。
帯業者がやって来る
やがてその帯を全国の帯業者が流行を見極めるために見物に集まるようになり、帯もますます最先端の豪華なものになっていったのだそうです。これが日本三奇祭『帯まつり』のはじまりです。
ちなみに『奇祭』と呼ばれるのは、大奴のしぐさが奇妙だからとか…。(じつは御神輿の前を歩きながらお祓いをしているのだそうです。)
大奴の所作は、足の上げ方、高さ、指先の動きにいたるまで厳格に今に伝え、静岡県無形文化財に指定されています。
鹿島踊りについて
同時に伝わる鹿島踊りは、大井神社が今のご社地にお遷しされているころ、町に流行った疫病を鎮めるためにお祀りした春日神社と一緒に伝わったもので、御神輿のお渡行が行われるようになると一緒にお供するようになりました。
鹿島踊りは千葉県房総半島から静岡県伊豆半島を中心に広く行われていますが、鹿島踊りの伝わる地域としては西限となるともいわれ、大奴のしぐさ同様、江戸時代からの動作を正確に今に伝えて、いち早く静岡県の無形文化財に指定されました。