どんなお祭りなの?
島田の人はお祭り好き?
祭典は毎年10月中旬に行われますが、寅、巳、申、亥の年ごと、満3年に1度『大祭(おおまつり)』といって御神輿のお渡りの神事がおこなわれます。
この大祭りの神事と余興(神社では『神賑』といいます)が『帯まつり』として全国に知られるようになりました。
3年に1度ということもあって、島田の人たちの大祭りに対する力の入れ様は相当なもので、たとえば祭りのあいだ着用する法被ひとつ取っても、裏地の刺しゅうに3年間(約100万円)かけて密かに心意気を競いあったなんてうわさも飛び交います。
また、『祭り講』といって、大祭りに備えて3年間隣組で集金箱を回して月掛をする風習もありました。(今では地元の信用金庫さんが集金してくれています。)
大祭りの年は、正月元旦からすでに町の空気が変わって来るほどなのです。
『帯まつり』は挨拶から始まる
10月が近づくといよいよ祭りの気運は高まり、各街には青年本部が設営されます。
大祭りの始まる1カ月位前から、『挨拶回り』といって青年衆が互いに各街毎に整列して、夜の街を提灯を持って各青年本部を巡り、挨拶を交わすために走り回ります。
各青年本部前では祭りに参加する青年が一人々々役職と名前を大声で名乗り、お互いの顔あわせをします。それまで互いに見ず知らずだった町の住人が急に接近して親しくなります。
この挨拶回りから始まって祭りが終わるまで、各青年本部前では提灯を掲げた伝令とそれを受ける応接の、身震いするほどに気合の入ったやりとりが頻繁に展開されます。これを見て島田の男衆に惚れてしまった女性も数多いたとか…。
『帯まつり』は9つの組織で運営される
祭りの3日間は7つの『街』と2つの町内に別れ、1~5街はお祓いを受けて大井神社の神札を祀った屋台を引き回し、6街は鹿島踊り、7街は大名行列、大奴、そして、お旅所に御神輿をお迎えする為の全ての手配を受け待つ元宮(御仮屋町で組織)それともうひとつ、新田町という町が組織する新組が御神輿のお渡り行列のお世話と、それぞれ明確に分けられています。
各街ごと40歳以下の青年衆が運営し、正副青年長の下に応接、伝令をはじめ、各自の仕事、権限が明確に区分され、青年衆はそれらの組織の中で、ル-ルを忠実に守って祭りを運営します。青年衆はそれぞれの街ごとに『心意気』を競いあって、常に自分の街の名誉を背負って行動します。
40歳以上の人たちは中老と呼ばれ、各街毎祭典本部、中老本部を設けて集まり、青年衆を見守り、補佐します。
『帯まつり』には仕来たりがいっぱい?
大祭りには江戸時代から伝えられるいくつかのル-ルがあります。たとえば各街には青年本部が置かれることはお話しましたが、各青年本部の間では、祭りの3日間は電話を使わず、伝令係と応接係がその連絡を担当します。祭りの間、伝言を託されて全速力で町を走り回る伝令青年をきっと一度はご覧になれると思います。
また、本通りの道路上には各街ごとに石灰で境界線がひかれ、1町内1余興の大原則をもとに列車運行表さながらの綿密なスケジュ-ルを組んだダイヤグラムを製作して、お渡り前の2日間それぞれ各町内を練り歩きます。
祭りには前述の『1町内1余興』の大原則の他、
『各街ごとの境界線を越える前に、必ずその街の青年本部の許可を取らねばならない。』
『屋台は絶対に後ろには下がらない。』
等々、伝統に乗っ取って細かくいくつものル-ルが決められており、こうした昔からのしきたりを頑なに守りながら、祭りを(粋を競いあいながら)運営する青年衆を見て歩くのも面白いかもしれません。
屋台踊りも本格的
屋台は屋根の上で大声を出して操縦する屋根屋と、大きな棒を持って屋台の車輪や骨組みにあてがって実際に屋台の向きを変えたり、動いたり止めたりする梃子屋、そして、車でいえば動力源にあたる綱(ロ-プ)でそれを動かしています。
この三者の息がピッタリと合わないと屋台の動きはギクシャクしてしまいます。
五基の屋台は、それぞれ如何に華麗な操縦をするかを競い合い、街の名誉をかけて運航されます。屋台はお祭りの約一ヵ月前に青年衆総出で組み立てますが、一旦組み立てると青年衆が当番を決めて寝泊まりをして警備をしながら、先輩から後輩へ大祭りの心意気などを伝えるのだそうです。
屋台では、それを曳くためのロ-プの内側で大勢の小学生が行う『地踊』と、屋台の上で幼稚園くらいの小さな子どもが本式の日本舞踊を披露する『上踊』を各所で行います。
上踊りの指導は東京から街ごとに家元を招いておこなわれ、祭り本番中も屋台の上で家元が踊り子の世話をします。
また、踊りの長唄やお囃子も東京から各流派家元の演奏家が招かれます。これらの芸人さんたちは『衣裳揃え』の行われる日の夕方、『お手見せ』といってその『街』のひとたちに腕前を披露する習慣があり、昔はその『街』の皆さんを満足させられないと、その日の夜そっと枕銭を置いて帰されたそうです。
大井神社のお膝元の第一街屋台は、大井神社の表鳥居前で上踊りの初踊りを奉納し、祭り三日目の最終日の夜、裏鳥居前で踊り納めをします。
大祭りは本当は4日間
3日間の祭り前日の朝7時30分、『衣裳揃え』といって全町の祭り青年衆が法被姿で正装して大井神社拝殿前に一同に集合し、お祓いを受けます。
その数約600人。各町内ごと颯爽と整列して歩いて来るので、すでに6時ごろには家を出ていることになります。
…ということは、5時起き!この『衣裳揃え』をいれると4日間、最終日のお渡りが終わってすべての余興が収まる夜10時まで、本通り(大井神社よりお旅所まで)を中心に付近の町は文字通り祭り一色になります。
青年衆は朝5時起きの夜10時以降(多分12時以降)帰宅が4日間も続くのです。好きでなければ出来ませんよね。
3日のうち2日は町中を練り歩く
大奴、鹿島踊りは、各町内の個人のお宅や、謂れのある場所で『振りこみ』といって伝統の芸能を披露します。
『振りこみ』をしていただいたお宅は、大変な名誉でありおめでたいことなので、とても喜ばれます。その代わりにお祝儀もかかるらしいのですが…。
また、2日目に大井神社に『振りこみ』をしてそれぞれ神様に奉納します。
最終日はお神輿を中心に1列になった元禄絵巻き
朝7時から大井神社では発輿祭といって、お御輿に御神体をお遷しして出発するための神事が行われます。
同じころ大奴、大名行列が大井神社拝殿前から列を組んで振り出します。最終日はこうして大奴、大名行列、お御輿(神社の行列)、鹿島踊りの順で行列が表鳥居を出ると、5~1街の屋台がそのあとにつづいて、お旅所まで約1.7キロにおよぶ一代絵巻きを彩るきらびやかな行列が出来上がります。最終日には『1町内1余興』のル-ルは解除されます。
お旅所には大祭りのために『お休み(又はお旅所)』と呼ばれる仮のお社が造営され、(旭町が担当し、大祭後に解体されます)一行は約1.7キロ離れたこの『お休み』までを、まる1日かけて往復します。